映画「めぐりあう時間たち(The Hours)」の公開がはじまったので、映画の前にヴァージニア・ウルフを読んでおこうと、映画のストーリーにもかかわりがある「ダロウェイ夫人」を読むことにした。

岩波ブックセンターにみすず書房刊の一冊があったので購入。
それを読みはじめた感想……やはり原書を注文しよう、と思った。面白いことは間違いないが、この本の訳者は、ヴァージニア・ウルフの研究者、英文学の研究者として著名な大学教授で、なんというか、プロとしての「翻訳者」ではないのだ。
原文は非常にリズムがあって軽やかだという。訳文になると、どうもそのリズムがしばしば崩れて邪魔される。
たしかに、文法的には間違いがないのだろうと思える文章、原文に忠実な文章なのだろうとは思うが、それは「小説としてこなれた表現」とは別のものではないかと感じた。

ひとつは、訳者の高齢さ(1911年生まれだという)にも関係するのかもしれないが、表現が妙に古いのもある。この本自体は1999年に刊行されているのに、だ。
もちろん小説の舞台となる時代背景には訳者の方がずっと近いには違いないのだが。

面白いことに、巻末にある訳者による解説文の方が、はるかに読みやすい文章になっている。わかりやすく、生き生きとしているのだ。
別の誰かの文章を、その意思を出来るだけ忠実に伝えなければならない、損なってはならないという意識が翻訳文を固くさせているのかもしれない。

もっとも、これは多くの翻訳ものにも多分に言えることであって、この訳者が悪いわけではない(むしろ研究者、教育者としてこれほど有能な人はいないだろう)。

翻訳ものが小説としてこなれているか、読みやすいか、というのは、まったく言語体系のことなる国の言葉を、いかに私たちのスタンダードな言葉に置き換えて表現できているか、ということだと思う。
だから時代が違えば、翻訳も変化してくるのだ。岩波文庫などにはよく、明治大正期の古い訳文のまま文庫になっているものがある(旧かなづかいのままのものも多い)。それはそれで、古い文体自体を楽しめることもあるが、大抵の場合は読むことにさえ疲れてしまいかねない。しかし、その時代の版しか存在しないような小説も数多いのでそれはそれで大変貴重だ。

「訳」というのはなにも外国語からとは限らず、日本の古典なども現代語への訳文で読むこともある。「枕草子」を橋本治が現代語訳したものなど面白かった(橋本治は「桃尻語訳」と称していた)。風情あるモノクロ写真が、パーッと色づいて総天然色(←古いなぁ)でムービーになるような感じだった。現代語訳というよりは、焼き直し、リメイクといった方が近かったか。

話は戻ってダロウェイ夫人だが、原書といってもペーパーバックが安く(なんと250円くらい)売っているのだ。アマゾンで他の何かと一緒に注文すれば送料もいらない。
1925年に世にでた話だから、英文自体も古めかしいのだろうとは思うが、幸い日本の英辞書は、古い表現が沢山収録されているので、わからないものに行き当たってもおそらくそれほどの問題はないだろう。どうしても理解できない時は訳文を参考にすればよいのだし。

で、同じ文章が訳者によって変化するのもまた面白いので、別の訳者による翻訳もみつけたので同時に注文することに。こうして我が家にはどんどん本が増えていくのだなあ…と実感。
なんせ、3年前に引っ越したのは、住んでいたマンションに本が収まりきれなくなったからなのだ。だから図書館のそばに引っ越してきたというのに……図書館の閉まる時間までに家に帰れないのと、仕事場が本屋街なのがアダになり……増え続けてどうなることやら。←自制しなさいって


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