翻訳ものの難しさ
2003年5月23日昨日、「時代が違えば、翻訳も変化してくる」と書いたが、独自の固有名詞を多く含む幻想小説の世界では、事情がかなり違ってくる。
たとえば指輪物語の中で、物語の舞台である“Middle-Earth”は“中つ国(なかつくに)”と訳された。単にカタカナで「ミドル・アース」と書くより、なんとイメージを想起させるネーミングだろう。また、ホビットが身を守る短剣に銘を与えるシーン、“Sting”と呼ぶのだが、これは“つらぬき丸”と訳される。今でこそ、RPGなどの普及で“スティング”“スティンガー”という言葉でその細く鋭い刃の様子を想像できるが、30年近く前の時代、日本語で正しく、意味を同じくする銘を「付けなおす」のは容易ではなかったと思う。“つらぬき丸”は、その短剣の特徴を正しく伝える。これは訳者の力量というものだと思う。
指輪物語のように広く読まれ、愛されている場合は容易に訳を(訳者を)変えることはできない。もしそれがあっても、馴染んだ固有名詞群は踏襲されるだろう。
映画「ロード・オブ・ザ・リング」の字幕/吹き替えでも、当然のように“Middle-Earth”は“中つ国”と訳されるし、そうでなければファンは納得しない。
ただし長年のうちに誤訳であったとわかった場合、またより一般的に正しいと思われる表現があると思われる場合は後年に改定訳されることはある。その場合も、既に「翻訳本の中に出来上がった世界観」は極力崩さないように配慮される。それは読者それぞれの心の中に、その世界が広がりを持って構築されている、ファンタジーならではかもしれない。実在しないからこそ、皆がそれぞれ大事に思っている世界なのだ。
ある国の言語をまったく別の国の言葉に直し伝えるというのは、まったく難しいことだと思う。意味さえあっていれば通じるというものではないから。たとえば韻を踏むこと。たとえば音を同じくする単語をつかって、複数の意味をもたせること。
それを日本語に置き換えようとすると、ヘタをうつと説明ばかりの面白くもなんともない文章になってしまう。あるいは、創作が多く介入してしまう。
世界中に未だに熱烈なファンが溢れている「不思議の国のアリス」なんかそのわかりやすすぎる例だろう。日本での翻訳本が、これまでどれだけの種類あったことか(もちろん、今も増え続けている)。そして、そのどの訳も、みんな違う!
言葉遊びの部分に注力している訳もあれば、言葉遊び、掛け詞のたぐいはバッサリと諦めているものもある。
言語の違いというのはなんて高い壁なんだろうと、翻訳本を考える時、つくづく思う。
余談だが、指輪物語は元々、作者トールキンがC.S.ルイスらも参加していたサロンの中で「どこの世界のでもない、独自の言語体系を作ってみる」というお遊びをはじめ、その流れから生まれてきた話だという。指輪に刻まれた文字の言葉「エルフ語」がそれなのだが、その“どこにもない国の言葉”が世界中を魅了し、各国語に訳されるとは、まったく大した「お遊び」もあったもんだと思う。
たとえば指輪物語の中で、物語の舞台である“Middle-Earth”は“中つ国(なかつくに)”と訳された。単にカタカナで「ミドル・アース」と書くより、なんとイメージを想起させるネーミングだろう。また、ホビットが身を守る短剣に銘を与えるシーン、“Sting”と呼ぶのだが、これは“つらぬき丸”と訳される。今でこそ、RPGなどの普及で“スティング”“スティンガー”という言葉でその細く鋭い刃の様子を想像できるが、30年近く前の時代、日本語で正しく、意味を同じくする銘を「付けなおす」のは容易ではなかったと思う。“つらぬき丸”は、その短剣の特徴を正しく伝える。これは訳者の力量というものだと思う。
指輪物語のように広く読まれ、愛されている場合は容易に訳を(訳者を)変えることはできない。もしそれがあっても、馴染んだ固有名詞群は踏襲されるだろう。
映画「ロード・オブ・ザ・リング」の字幕/吹き替えでも、当然のように“Middle-Earth”は“中つ国”と訳されるし、そうでなければファンは納得しない。
ただし長年のうちに誤訳であったとわかった場合、またより一般的に正しいと思われる表現があると思われる場合は後年に改定訳されることはある。その場合も、既に「翻訳本の中に出来上がった世界観」は極力崩さないように配慮される。それは読者それぞれの心の中に、その世界が広がりを持って構築されている、ファンタジーならではかもしれない。実在しないからこそ、皆がそれぞれ大事に思っている世界なのだ。
ある国の言語をまったく別の国の言葉に直し伝えるというのは、まったく難しいことだと思う。意味さえあっていれば通じるというものではないから。たとえば韻を踏むこと。たとえば音を同じくする単語をつかって、複数の意味をもたせること。
それを日本語に置き換えようとすると、ヘタをうつと説明ばかりの面白くもなんともない文章になってしまう。あるいは、創作が多く介入してしまう。
世界中に未だに熱烈なファンが溢れている「不思議の国のアリス」なんかそのわかりやすすぎる例だろう。日本での翻訳本が、これまでどれだけの種類あったことか(もちろん、今も増え続けている)。そして、そのどの訳も、みんな違う!
言葉遊びの部分に注力している訳もあれば、言葉遊び、掛け詞のたぐいはバッサリと諦めているものもある。
言語の違いというのはなんて高い壁なんだろうと、翻訳本を考える時、つくづく思う。
余談だが、指輪物語は元々、作者トールキンがC.S.ルイスらも参加していたサロンの中で「どこの世界のでもない、独自の言語体系を作ってみる」というお遊びをはじめ、その流れから生まれてきた話だという。指輪に刻まれた文字の言葉「エルフ語」がそれなのだが、その“どこにもない国の言葉”が世界中を魅了し、各国語に訳されるとは、まったく大した「お遊び」もあったもんだと思う。
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