手土産にさくらんぼ
2003年6月23日6月もそろそろ終盤に近くなると、毎年決まって夫くんの実家がさくらんぼを送ってくれる。とどいたさくらんぼの包みをあける瞬間、ああ、夫くんの田舎が山形でうれしい……と思う。
でもゆっくり眺めたり味わったりするのは後回し。これまでお世話になった方々へさくらんぼを持って挨拶まわりをしなければいけないから。さくらんぼは痛みやすいから、さーっと連絡してさーっと配る。ただ一軒だけを除いては。
どこのお宅でも、お土産がさくらんぼとなるととても喜んでくれるのが嬉しい。
ことに、毎年恒例でお持ちしているところは、この時期を待ちかねているらしい。
私たち夫婦の婚姻届の証人になってくださった恩師、永島慎二さんのお宅へ足を運ぶのも1年ぶり。随分ご無沙汰してます、今年もさくらんぼが沢山届きましたので、届けにお伺いいたしますと連絡を入れた。
3年前、私たちが引越しをした半年後、永島さんも長年住み慣れた阿佐ヶ谷を離れ、西荻窪に移られた。昔はこんもりとしたお庭のある古いお家だったけど、今はモダンな三階建。
「先生、お久しぶりです」
「よく来てくださいました。お元気でしたか」
にこやかに返してくださるそのお顔はとても涼やか。でも体は以前とは比べ物にならないくらい、細くなってしまわれた。病気のせいだ。今は週に3度、透析に通わなければいけない状態だそうだ。
ほんの数年前までは、まだまだやんちゃなところの抑えきれない方だった。そのせいで倒れてしまったのだけど、好きなことをやってきた人生だから、と奥様は笑う。
永島慎二さんは、本当は「先生」と呼ばれるのを嫌がる。以前も、先生はやめてください、ダンさんでいいから、と私に言われた。
「じゃあ、今度からダンさんとお呼びしてもかまいませんか」
というと、嬉しそうにもちろんですとおこたえになった。
でも難しいのだ。長年、私にとって“先生”だったんだから。子供の頃から、ずっと憧れてきたんだから。面とむかって、“ダンさん”と呼ぶのは、すごく恥ずかしいのだ。
これほどまでに憧れの対象でなければ、気軽に呼べたかもしれないけど。
最初に“ダンさん”と出会ったのは、本の中。心から血を絞り出すような、青春群像を描いた漫画。まだ子供だった私に、人生の苦さや不条理さ、切なさ、辛さを漫画を通して教えてくれた。カッコよかった。「フーテン」や「漫画家残酷物語」はバイブルだ。
多くの若い人が、それは演劇人だったりミュージシャンだったり漫画家だったり、そういう人たちが、“ダンさん”を慕って阿佐ヶ谷に住んだ。私も、少し遅れてきたけどその一人。
駅前で偶然「永島慎二」の署名の自画像そのままのお姿を発見した時、思わず「永島せんせいっ」とうわずった声で叫んでしまった。先生はその声に振り向き、「はい、こんにちは…」と言われた。
卒倒するかと思った。あんなに心臓が躍り上がったことはなかった。
憧れの人なのだ。夢にまでみた本人なのだ。
私の、神様なのだ。
その後、お家に遊びに寄らせていただいた時も、飲みにつきあっていただいた時も、“ダンさん”は意気軒昂、医者なんかの言うこときけるもんじゃない、とばかり、止められていたお酒をちろりと飲んだ。
今はお酒はもちろん、一日に摂取する水分の量まで決められている。
「すみません、沢山食べられないから、少しだけいただきます」
と、お皿の上に4つのさくらんぼ。嬉しそうに食べてくださった。
たくさんあるから、シェリー酒にしましょう。長く楽しめるから、と奥様がおっしゃった。
1時間ほど、サッカーのこと本のこと、ご病気の治療のことなど、笑いながら楽しく会話させていただいた。いつもユーモアを忘れない方。どんな逆境からでも楽しいことを見つけることができる方だ。
西荻をあとにする時、次は何をお土産にと考える。手土産などなんでもよいのだとはわかっている。でも、何をお持ちすればより喜んでいただけるかと、考えて次の来訪をおもうことが、楽しいことなのだ。
でもゆっくり眺めたり味わったりするのは後回し。これまでお世話になった方々へさくらんぼを持って挨拶まわりをしなければいけないから。さくらんぼは痛みやすいから、さーっと連絡してさーっと配る。ただ一軒だけを除いては。
どこのお宅でも、お土産がさくらんぼとなるととても喜んでくれるのが嬉しい。
ことに、毎年恒例でお持ちしているところは、この時期を待ちかねているらしい。
私たち夫婦の婚姻届の証人になってくださった恩師、永島慎二さんのお宅へ足を運ぶのも1年ぶり。随分ご無沙汰してます、今年もさくらんぼが沢山届きましたので、届けにお伺いいたしますと連絡を入れた。
3年前、私たちが引越しをした半年後、永島さんも長年住み慣れた阿佐ヶ谷を離れ、西荻窪に移られた。昔はこんもりとしたお庭のある古いお家だったけど、今はモダンな三階建。
「先生、お久しぶりです」
「よく来てくださいました。お元気でしたか」
にこやかに返してくださるそのお顔はとても涼やか。でも体は以前とは比べ物にならないくらい、細くなってしまわれた。病気のせいだ。今は週に3度、透析に通わなければいけない状態だそうだ。
ほんの数年前までは、まだまだやんちゃなところの抑えきれない方だった。そのせいで倒れてしまったのだけど、好きなことをやってきた人生だから、と奥様は笑う。
永島慎二さんは、本当は「先生」と呼ばれるのを嫌がる。以前も、先生はやめてください、ダンさんでいいから、と私に言われた。
「じゃあ、今度からダンさんとお呼びしてもかまいませんか」
というと、嬉しそうにもちろんですとおこたえになった。
でも難しいのだ。長年、私にとって“先生”だったんだから。子供の頃から、ずっと憧れてきたんだから。面とむかって、“ダンさん”と呼ぶのは、すごく恥ずかしいのだ。
これほどまでに憧れの対象でなければ、気軽に呼べたかもしれないけど。
最初に“ダンさん”と出会ったのは、本の中。心から血を絞り出すような、青春群像を描いた漫画。まだ子供だった私に、人生の苦さや不条理さ、切なさ、辛さを漫画を通して教えてくれた。カッコよかった。「フーテン」や「漫画家残酷物語」はバイブルだ。
多くの若い人が、それは演劇人だったりミュージシャンだったり漫画家だったり、そういう人たちが、“ダンさん”を慕って阿佐ヶ谷に住んだ。私も、少し遅れてきたけどその一人。
駅前で偶然「永島慎二」の署名の自画像そのままのお姿を発見した時、思わず「永島せんせいっ」とうわずった声で叫んでしまった。先生はその声に振り向き、「はい、こんにちは…」と言われた。
卒倒するかと思った。あんなに心臓が躍り上がったことはなかった。
憧れの人なのだ。夢にまでみた本人なのだ。
私の、神様なのだ。
その後、お家に遊びに寄らせていただいた時も、飲みにつきあっていただいた時も、“ダンさん”は意気軒昂、医者なんかの言うこときけるもんじゃない、とばかり、止められていたお酒をちろりと飲んだ。
今はお酒はもちろん、一日に摂取する水分の量まで決められている。
「すみません、沢山食べられないから、少しだけいただきます」
と、お皿の上に4つのさくらんぼ。嬉しそうに食べてくださった。
たくさんあるから、シェリー酒にしましょう。長く楽しめるから、と奥様がおっしゃった。
1時間ほど、サッカーのこと本のこと、ご病気の治療のことなど、笑いながら楽しく会話させていただいた。いつもユーモアを忘れない方。どんな逆境からでも楽しいことを見つけることができる方だ。
西荻をあとにする時、次は何をお土産にと考える。手土産などなんでもよいのだとはわかっている。でも、何をお持ちすればより喜んでいただけるかと、考えて次の来訪をおもうことが、楽しいことなのだ。
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